シネマで死ねない

語ることについて語るときに僕の語ること

本当にいるのは有無を言わせない圧倒的な目的

全て何かの一部ってことに僕らは気づかなかった。

 

抽象的な話だけしようとするとちょっと気持ち悪い。

でもかけないこともたくさんある中で、また何も振り返らないまま過ぎ去ってしまうのが悲しいので断片でもいいから書き残したい。他人に話す中で見つけたピースをばらまいていく感じで。

 

 

話すことを仕事にしていると言えるかもしれない。

自分は人と話すことが、人に話をしてもらうのも聞いてもらうのも好きだ。

まず人に話をしてもらうことで、自分とは違った世界の切り取り方に出会うことがある。

 人に話をすることで、自分の考えが整理できることもあるし、自分の気づいてなかった考えに出会うこともある。

今見えてる世界はきっと一部にすぎないし、切り取り方によって世界はぜんぜん変わる。もっともっと世界を拡げてきっとどこかにあるはずの楽しいことを探すだけの簡単なお仕事、かもしれない。

なんで楽しいことを探すのか?

まあ楽しいほうがいいんじゃん、としか言いようがないんだけど、なんかあれしたいとかこれほしいとかって結局幸せになりたいってことなんじゃないかなって思ってて、ほんでこれについてはもうなんかなんで幸せになりたいの?とは聞けないんですよ。ということはいろんな人が言ってる、成長したいとか他人を助けたいとかいうことも結局は自分が幸せになりたいってことなのかなって思ったりして、そう思うとそういうことに共感できなくもないなって思うわけです。なんかバンプの「ひとりごと」っぽいけどそういうエゴイズムな説明でしかきっと自分は納得出来ないのです。

でももし例えば誰かが自分に、幸せになりたいか?って聞いてきたとしたら自分は肯けるかと言われたら、はっきりそうとは言い切れないものがあって、なんでかって言うと、いろいろと捻じ曲がった考え方なんだけど、ちょっと不幸せさを孕んだ幸せのほうが自分にとって幸せなのです。ちょっとだけ、或いはある程度辛い方が満足出来るのです。

そう考えると、まあ自分は捻くれた例なので混ぜないほうがいいのかもしれないですが、幸せになりたい、ってこと以上に満足度が高いかどうか?ってことがポイントになってくるのかもしれません。分かりません。

とにかく思うのはあれしなきゃ、これしなきゃってタスクに追われて生きるよりも、何のためのタスクかってことに重きを置ける人生というか、満足度の追求のために生きるのがいいのかなと思います、自分に対してもだし、周りに対してもだし。

だからこそ、もっともっと楽しみたいのです、楽しいことも楽しくないことも。

満足度を高めるために生きたほうがよくないですか?

でもきっとこれって、自分の気持ちに素直になることって本当に勇気がいることなんだろうなとも思ってて、それはしがらみとかこれまでの自分の考えとかそういうものに寄るんだろうけど。素直になるのに勇気がいるなんて、訳がわからない話だけど、だからこそ素直になって、自分の求めるものを追求していきたいと思うのです。

 

自分の求めるものは、世界を拡げることなので自分の頭の中なり、他人からもらった切り口なりで素直に世界を拡げ続きたいと思っています。

 

あとからよんでも分けわからないんだろうなきっと。

自分の気持ちに素直になるにはきっと勇気が要る、だから素直になりたい