シネマで死ねない

語ることについて語るときに僕の語ること

【学生団体の深め】生温い不幸に対する考察

前回引き続きこの話。今日は「学生団体が自己満足だ」とはどういうことかという話。

 

学生団体の運営に携わっていて一番苦労するのは集客である。

おかしなことだ。

何がおかしいか説明するためにまずは学生団体が何であるか、NPOとサークルの違いをもとに定義してみよう。

 

学生団体のまとめサイト”ガクナビ”によると

学生団体とは学生主体である活動を行っているか将来的に行う、個人あるいは組織”らしい。

NPOとの違いは”学生が主体である”ということであろう。

 

ではサークルとはどう違うのか?これもガクナビさんから引いてみると

サークルは主催が同時に参加であり、内に向けての主催である一方で、学生団体の場合は外部に向けての主催が比較的多い。つまり活動の対象に第三者が含まれていたり、自分たちの活動を享受するカスタマーが前提として存在する。そのため学生団体の多くは社会に触れる性質を強く持つ。社会の協力を仰いだりであったり、実際に社会人と接触する機会が多い、また何かしらのコンセプトが根幹にあり、それが社会的問題に訴えることが活動の主体であることが多い。それらはビジネスとしてやっているわけではないが、企業が入り込まないような事業を”学生団体”として課題解決に向かう。構成員は金銭以外の面での喜びをやりがいとしている。

らしい。社会と結びつくような目的的集団ということだろう。

 

まとめると

学生主体で行われる社会に訴えかけるコンセプトを持った団体

ということだ。たぶんね。

(こっからちょっと自分の主張に持って行きたいから飛躍するけど)

ということは学生団体は何らかの社会に訴えかける必要のあることを訴えかけているはずで、ということは誰かしらのニーズがあるから行動しているはずである。たぶんね。

そのコンセプトを持った学生団体が行う企画はニーズがあるはずなのに、イベントの集客に困るとはどういうことなのだろう、これはまだいい。

集客に困ったからといって学生団体同士で協調しあってお互いのイベントに出合ってまるで集客できている、社会的ニーズがあるかのように見せかけるのはいい加減やめよう、君のために言っているんだよ。