シネマで死ねない

語ることについて語るときに僕の語ること

『色彩を持たない多崎つくる』と彼のイメージの話

GWはサシ飲みにディズニーに、あとはバイトと映画というひたすら映画に浸かるという生活をして過ごした。何をしたわけでもないけど、充実していた。マーベル・シネマティック・ユニバース フェイズ1を全作鑑賞するという目標は果たされなかったので達成感はない。いや充実感もないかもしれない。

GW中は半分くらいの夜を映画館で過ごしたため、バルト9の幕間の音楽が耳に残ってしまって、少しでも気を抜くとあの音楽が頭で流れだしてしまう。

それと昨日から”レーゾンディトール”という単語が頭から離れない。というのも

村上春樹の新作のレビューワロタwwwww 

こんなまとめスレを読んでしまったからだ。

 

もちろん『多崎つくる』のことは知っている。先日友人と映画を観に行ったとき(映画は大抵の場合1人で観るのだが)にこの本がかなり重刷されている、とWikipediaを見ながら話した覚えもある。

でも自分はこれまで『多崎つくる』を読むことはなかったし、読もうとも思っていなかった。発売されてから本屋には何度か行っているし、その中でこの本が大量に平積みされていたりまたは品切れになっているのを見かけたけどそこまで興味を惹かれなかった。前作『1Q84』を未読だからとか、最近立ち読みが出来ないというのはあるだろうけど、何故だかあまり心惹かれなかった。 

自分は村上春樹は結構好きで、このブログも『走ることについて』を捩ったものだし、最近は『辺境・近境』とか『もしも僕らの言葉が』といったエッセイを読んだりしていた。でも『多崎つくる』は(どうでもいいが「たさきつくる」ではなく「たざきつくる」である)あまり読む気にならなかった。わざわざ買うつもりもないし、誰かが貸してくれると言ったら読もうかな程度だった。大衆ウケするものを嫌がる、という自分の捻くれた性分によるものかもしれない。

それが上記のレビューを読んで以来、これは批判しているものであるにも関わらず、気になって仕方なくなり今日遂に本屋で立ち読みをしてしまった。開始数ページ、レビューで言及されているような厨二病めいた孤独の描写、そうそうこれこの感じだよ、あれよあれよという間に村上春樹村上春樹らしい文体に引き込まれてすっと5分も経たない間に10ページくらい読み進めてしまった。ネタバレされているのでストーリーは分かっているし、村上春樹の作品はストーリー自体はそれほど秀逸ではないというよりむしろ訳が分からないくらいなのだが、表現力特に登場人物同士のオシャンティーな会話にやられてしまう。現実世界でこんな話し方している奴がいたら確かにいけ好かない奴だと思うかもしれない(ただし某先輩のSNSへの村上春樹めいた文体のpostは好きだ)けど、作品中においてはそのオシャンティーな会話が魅力的でありすぎる。そんなことを思いながら最近ではあり得ないくらいの速度で読み進めていた。タイトルがラノベぽいしライトに読めますなーなんて思ってた。それくらい文体に魅せられて作品に引き込まれていたということです。ところが

 

多崎つくるは東工大生ではないか?

 

という疑問が頭に浮かんだ瞬間、何かが一気に冷めた。

彼の駅舎好きは最早ただのオタクにしか感じられないし、彼が友人を作れないのも童貞なのも東工大生だから仕方ないかー、で済んでしまって、それまで悲しき孤高の人だった多崎つくるが一気にコミュ障ぼっちというイメージに摩り変わってしまった。恵比寿のバーで聡明そうな女性と赤ワインを飲みながらオシャンティーな会話をしていた多崎つくるが一転、ただのコミュ障ぼっち鉄オタに変わってしまったのだ。これじゃあいくらレーゾンディトールだなんだって会話されても、もう「はいはい、おつおつ」としかならない。

あの引き込まれてた瞬間を返せ。

もう続き読まないかもしれない。