シネマで死ねない

語ることについて語るときに僕の語ること

知識を得るために

いつもほど猛烈なアウトプット欲はないのだけれど、最近書いてないな―と思ったのでちょこちょこ書いていきます。なんでアウトプット欲がないかというと1人LINEでTwitterの代わりに吐き出したり1人ぐぐたすでブログの代わりに書評とかアイデアとかを投げたりしているから。SNSなのに誰かとネットワーキングされないっていう謎な状況だけど、自分と自分を繋ぐログにはなっています。

 

さて本題。知識とか学びの話。

 自分は非常に勉強が苦手です。ここでいう勉強というのは所謂授業受けて知識を得て演習して、みたいな座学のこと。苦手というかほぼ不可能。

 

授業聞くよりも自分で問題ときながら教科書見て、という演習ありきの学習の方が中学生くらいから向いてました。それで受験勉強というものはまあなんとか乗り切り、というか巧いこと回避してそこそこの大学に入り、壁にぶち当たったわけです。授業はもちろん聞かない、でも問題に全く手を付けられない。教科書はあるにはあるけど何が書いてあるか意味がわからない。学べなくなってしまいました。最近何かを学んだことといえば、本でも人からの話でもなく圧倒的な実体験だけです。

そもそもの自分は知識大好きでした。小学生の頃など、兄がいたこともあって、家での会話から多くの知識を得てそれを頼りに誇りに思い暮らしていました。知識先にありき、であとから実感が付いてくる、自分にとって日々の生活とは知識の確認作業的な意味合いが強かったと思います。またこの頃から学校の授業では新たに得られるものはない、と感じ授業などを真面目に聞くという姿勢はなかったように感じます。

ところがある日、今でも鮮明に覚えているのですが、体験から発見をするという機会を得ました。体験といっても授業でやったモーメントの実験なのですが、重さと距離の関数で釣り合うという知識がなかったときに、実験で(それも結果が分かるように用意されてたものですが)気づきを得た、というのは自分にとって新鮮でとても嬉しいものでした。

それ以来、知識を先に身につけるのでは人生の楽しさは半減するのではないか(大袈裟ですが)と考えて、体験ありきでそこから何かを学びたいという気持が大きくなったように思う。それが加速して現在に至る。

最近もっと思うのは、知識というものはもはや要らないのではないだろうか、ということ。調べればなんでも分かる、必要なのは調べ方と考え方のフレームだけだ、ということです。それらも知識じゃねーか、と言われればそれまでですが。

でもこれ言うと結構いろんな人に否定されてて、何かしらベースの知識がある程度ないと何も出来ないよとか言われます。自分が知識を効率的に得ることが出来ないからこそ、こういうことを信じたいだけなのかもしれません。

 

体験から学んでいると書いたけど顧みないから学んですらいないかもしれない。