シネマで死ねない

語ることについて語るときに僕の語ること

【メモ】生温い不幸に対する考察-まりかーと学生団体と被災地ピースの話-

これについて書くのはなかなか難しそうだと思うので何度でも書いていきたい。

秋は自分暴きの季節。

 

■被災地 これはあんまり関係無さそうだけど発端ではある

Facebookで知り合いが被災地ボランティアに行った際の写真を上げていた。

それは瓦礫の山の前でピースサインをして写っているもので、自分は何故かそれに過剰反応してしまって本当に未だにモヤモヤしている。

その写真についての批判を兄にしたときに、「自分が何もしてないくせにそんなこと言えないだろ」と言われる。

 

 

■学生団体

学生団体が嫌い。

というかまあ理念だけで行動の伴わないものは嫌いだし

たとえ行動しててもそれって自己満足じゃねってのは嫌い。

あと理念が他人からの受け売りなものは本当に受け付けない。その人の原体験からくる問題意識を基にした学生団体がいい。

あとは立派な理想のために動くくせに目の前の時間を守れないやつはアレ。

学生団体に所属し始めた理由は自分がやることで他の学生団体をdisるため。

 

■まりかーの話

自分が幸福か不幸かというのはあまり感じない。だけど自分の中での乖離から生きづらさは感じているし、微妙な環境とか崩れた性癖とか自分の過去の話を人にした時の反応から考えるに、自分はどちらかと言わなくてもあまり幸福ではない中で育ってきたらしい。だからといって、そういう人を助けよう!そのために活動しよう!とかそこまでは思わない。問題意識はそこからは生まれない。自分の今までは自分ではそこまで「問題」だと思わないし。問題だと認めるのが怖いということもあるけど。それに他の人が自分と似たような状況に苦しんでいるとしたって、それはその人の勝手であって、自分とは関係ないし、自分の問題だって誰も何にもしてくれないと思って自分が勝手に受け容れてきたことだし。今ではなんとかそういう状況と付き合って行けているというのも大きいかもしれない。本当に問題だと感じていたら、それがいわゆる原体験あっての問題意識なのかなと思うけど、自分の場合は「生温い不幸」に過ぎないために問題意識はない。「生温い不幸」は不幸よりもよくて、本気になれば不幸を無視出来る。いま実際に苦しんでいるけど全力でそんなに苦しまなくても毎日少しだけなんかおかしいみたいなそんな感じ。「生温さ」はたまに沸騰してしまうこともあるけど、日々だらだらしてれば向き合わなくて済む程度の熱さ。だからこそなんか自分の中で自分との乖離が生まれてしまうのかもしれない。自分よりもっと可哀想な人はいっぱいいるから自分の状況なんて悩みとして人に打ち明けるほどではない、という考えなのかな。実際悩んではないし、消化は出来ないし納得は出来そうもないけど。納得出来ない状況の半分は身から出た錆で、過去の自分の行動によるものだからなんとも言えない。

 

そういえば大学2年半目にしてようやく最近自分が今の大学にいることに納得できるようになってきた。違和感は半年目くらいからなかったけど、ここまでこれたのは大きな進歩。少しずつ自分自身に納得してやっていかないと。

話がバラバラだけど各内容はこんな感じ。

ミクロ経済学の課題しなければいけない。現実逃避している場合ではない。