シネマで死ねない

語ることについて語るときに僕の語ること

飛行機に乗り遅れてSNSコミュニケーション乞食について考えた話

f:id:maricar9710:20130227000557j:plain

ちょうどまる2日前、私は羽田空港で途方に暮れていた。

搭乗予定便D7523 Departed

んん?Fnal callではなく?ん?あれ?

という感じで離陸時間とチェックイン時間を勘違いしていてインドネシアへ行くための飛行機に乗り遅れました。どうしようもなくて意味がわからなくて爆笑してました。

 

 

 

 

まさに笑おう笑おう笑えなくても笑うしか無いでしょ

という感じでした。ちなみにこの一件によって自分が無駄にしたお金は一ヶ月の生活費よりも高いです。

 

 

 

  そこでまあとりあえず誰かに聞いて貰いたいということでFacebook

「とんでもない失敗した。誰か慰めるか、笑い飛ばすかしてほしい。」

と投稿したところ、何人かコメントとか'like!'とかくれて、

いや何がLikeだよとか思いながらもこの投稿を見た知り合いが羽田まで車で迎えに来てくれてなんとか家に帰ることが出来ました。夜遅くて終電もなく、羽田に泊まるはめになりそうなところ助けてくれた上にいろいろ話を聞いてくれました。

 

ここまでしてもらえるとは思ってなかったわけですが、SNSに自分が失敗したと投稿した時点で、個人的な体験だったものを誰かにリアクションしてもらいたいと求めているということです。Twitterみたいに気軽になんでも投稿できる場があることで、以前だったら個人の体験や感情にすぎなかったものを簡単に他の人とシェア出来るようになりました。そのことによってかまってちゃんすることへの障壁がぐぐっと下がったように感じます。

https://twitter.com/_k18/status/27945807164473344

 このpost見たときになるほどなーと思ったんだけど、直接的でないかまってちゃんというよくわからない構図が可能になります、そうお気軽なSNSならね。

 

自分もアレ行きたいとかこれしたいとかよくpostしてしまうけど、別にわざわざpostする必要ないのについついしてしまうのはメモ的な意味もあるだろうけど、それ以上によかったら誰か一緒に行きませんか?というニュアンスがある気がする。

もっというと、誰かではなくて、特定の誰かと一緒に行きたい/したいけど直接誘って断られるのが嫌というまさに上のツイートで引かれている様な心境なわけです。特定の人とコミュニケーションとりたいときに、アプローチが遠回りにでもかなりお気軽になりました。

そもそも自分の場合、特定の誰かでなくても、誰でもいいからかまって!という気持ちが爆発してTwitter始めたし、そういうものかなと思います。

 

1年ほど前にsutudy gift(http://studygift.net/)が大炎上した時に

「乞食、乞食」言われてたのを見て、

現代は乞食の時代だなーとかぼんやりと考えていたことを数ヶ月越しに言葉にしようとしてみました。しかしたぶん上に書いたこととスタディギフトの話は飛躍が大きいのでまだまだ考えて今後書きます。(こう書いて今後書いたことは一度もないけど)